第1部 まとめ






結果

【地球規模での窒素・リン循環に占める人間活動】
 自然界での窒素・リンのフローを文献値より求めた.これによると陸地へのインプットは,窒素:2.6-4.2×1014g/year(窒素固定と大気降下物の合計),リン:3.2-9.2×1012g/year(大気降下物)程度の大きさとなった.
 農産物貿易によって移動する窒素・リンの量を,FAOの貿易統計および食品成分表から計算した.これによると移動量は,窒素:1.1×1013g/year,リン:1.5×1012g/yearとなった.これは,自然界における陸地へのインプットの,窒素で2.6-4.2%,リンで16-47%に相当する.
 一方いくつかの統計値から計算した,農産物貿易・鉱工業(工業的窒素固定/リン鉱石の生産)・漁獲によるフローを合計すると,窒素:9.4×1013g/year,リン:2.3×1013g/yearとなった.これは自然界における陸地へのインプットの,窒素で14-22%,リンで2.5-7.2倍に相当する..

【各国の貿易収支】
 FAOの貿易統計その他のデータを用いて農産物貿易による世界192カ国の窒素・リン収支を計算した.輸出国ではアメリカ合衆国が輸出国合計の約50%,輸入国では日本とソ連の2国で輸入国合計の約30%を占めていると計算された.
 一方,人口・国土面積・農地面積あたりに換算した収支で比較すると,輸出国ではアルゼンチン・アメリカ合衆国・フランス・カナダ・パラグアイといった農業国が上位に入った.輸入国ではシンガポール・香港などの小国家で非常に高い値となったが,国土面積1万km2以下の国を除くと,オランダ・ベルギー・韓国・イスラエル・日本という順となった.これらの国では飼料用作物の輸入が貿易量の大半を占めていた.
 また,人口あたりに換算したGNPと農産物貿易量の散布図を描いた結果,両者の間に弱い比例関係があることが分かった

【貿易・肥料消費・漁獲の合計フロー】
 FAO統計に掲載されている192カ国について,貿易・肥料消費・漁獲を合計したフローを計算した結果,ほとんどの国が収支プラスとなった.さらに,アメリカ・ソ連・中国・インドの4カ国で窒素:4.6×1013g/year,リン:9.0×1012g/yearとなり,世界全体の人間活動に由来するフロー全体の約半分を占める結果となった.日本は第5位となった.
 国土面積・農地面積あたりのフローを計算した結果,【各国の貿易収支】における輸入国と同様,シンガポール・香港などの小国家で非常に高い値となった.しかし,1万km2以下の国を除くとオランダ・デンマーク・イギリス・ベルギー・韓国の順になり,日本は第8位となった.

【日本における自然界でのフローと人間活動の比較】
 過去の研究成果についてのレビューを行った結果,日本において自然環境に由来する面積あたりの年あたりインプットは,窒素:35kg/ha,リン:0.45kg/ha程度であると結論された.これは,陸地へのインプット総量についての文献値(【地球規模での窒素・リン循環に占める人間活動】参照)を陸地面積で割った値,窒素:19-31kg/ha,リン:0.24-0.69kg/haと比較しても妥当な数値である.
 一方,貿易による日本へのインプットは国土面積あたりにして,窒素:29kg/ha,リン:3.4kg/haと計算された.さらに,肥料消費・漁獲を含めたインプットの合計は,窒素:62kg/ha,リン:14kg/haと計算された.日本における人間活動由来のインプットは自然環境由来のインプットを大きく上回り,溶脱率(〜30%)を考慮した場合,窒素については環境庁による環境基準を基に計算した環境容量を超えていると結論された.しかし,リンについては自然界での動態に関する知識が不足しており,どのような影響があらわれるかは不明である.

【日本以外の輸入国・輸出国での窒素・リンフロー】
 1万km2以上の国についてみると,輸入国については,日本より多くの窒素・リンを農産物として輸入している国や,農産物貿易に肥料消費・漁獲を含めた合計が日本と同等かそれ以上となる国がいくつか存在した.これらの国は西ヨーロッパおよび極東に集中している.
 輸出国については,肥料消費を超える量の農産物を輸出している国が窒素で8カ国,リンで4カ国存在した.輸出量を農地面積あたりに換算すると自然界での陸地へのインプットと同程度あるいはそれ以上の輸出となっている国も,窒素で5カ国,リンで3カ国存在した.これらの輸出国は南米およびアフリカに分布する.


考察

【地球規模での窒素・リン循環に占める人間活動】
 地球全体のフローと比較した場合,農産物貿易によって移動する窒素は微小であるが,リンについては約8倍となっている.さらに,鉱工業や漁獲を含めた人間活動全体では,窒素で約2割,リンで約30倍,となり,人間活動にともなう窒素・リンのフローは,自然環境中の循環量に比べてすでに無視できない規模になっている.このようなフローの増加が自然環境に与える影響については不明の点が多いが,少なくとも地域レベルで見た場合に陸水の汚染などにつながっている可能性が高いと思われる.

【各国の貿易収支】
 アメリカ合衆国や日本・ソ連は農産物の世界貿易に占める地位は高いものの,面積あたりに換算した場合には他の主要貿易国と同程度のレベルとなることが分かった.したがって,少なくとも窒素・リンのフローレベルという点では,日本は極端な国ではない.

【貿易・肥料消費・漁獲の合計フロー】
 面積あたりに換算したインプットの量は,西ヨーロッパの国々や韓国・北朝鮮・日本などで高い値となった.これらの国では閉鎖性水域の富栄養化や地下水の汚染などが生じている可能性が高い.

【日本における自然界でのフローと人間活動の比較】
 日本においては,自然界でのフローをはるかに上回る窒素・リンが貿易・肥料消費・漁獲によってもたらされている.窒素については,溶脱率(〜20%)を考慮すれば,人間活動による窒素のインプットが地下水の汚染や陸水の富栄養化に結びついている可能性が高い.リンについては土壌中に固定される割合が高いため,陸水圏に流入する割合は営農方法や廃棄物の処理方法によって大きく変化すると思われる.しかし,実際に有機質廃棄物がどのように処理されているか,あるいは個々の状況によってリンの動態がどのように変化するのか,については不明な点が多く,現時点で農産物輸入を含む人間活動に由来するリンが自然環境にどのような影響を与えているかは不明である.
 日本が輸入している農産物の約半分が飼料用の作物を占めている一方,畜産廃棄物による環境汚染が現在深刻化しているという報告が存在する.農産物貿易にともなう窒素・リンのインプットは畜産業に集中しており,糞尿処理施設の普及の遅れなどを考慮すると,早急な対策が必要と思われる.

【日本以外の輸入国・輸出国での窒素・リンフローと人間活動】
 西ヨーロッパの国々ではすでに硝酸態窒素による地下水汚染が日本以上に深刻化している.本研究で計算された合計のインプットでも日本以上のインプットをもつ国が西ヨーロッパに集中しており,大量の農産物輸入や肥料消費と関連があることが強く示唆される.
 一方,アルゼンチンは肥料消費以上の窒素・リンを農産物として海外に輸出しており,その量は自然環境由来のインプットに匹敵する.農地の荒廃と収量の低下が懸念されるが,その明確な証拠は得られなかった.また,窒素・リンの持ち出しと収量の変化との間にどのような関係があるかについても調べられなかった.今後の課題である.


今後の課題および展望

 本研究では,貿易を含めた人間活動によって生じる窒素・リンのフローの把握と,自然界でのフローとの量的な比較にとどまり,国内での農産物流通による窒素・リンの移動や農地における窒素・リンの動態などについて考慮しなかった.しかし,物質循環の撹乱は本質的に地域的な問題である.したがって,人間による農産物(有機物)の輸送が自然環境にもたらす影響について知るためには,より細かい地域ごとの移動量・放出量データが必要となる.しかし,そのようなデータを世界全体について得ることは現在では困難である.日本国内では農産物流通の統計などを用いて,ある程度フローの把握を行うことができると思われる.農産物流通にともなう窒素・リンの移動や廃棄物の発生量などのデータを河川や地下水の水質データ,気候データなどと組み合わせることで,水質汚染のシミュレーションモデルを構築できる可能性がある.
 アルゼンチンを含めたいくつかの国で肥料消費以上の農産物輸出を行っていることが分かったが,その影響については調査できなかった.こうした輸出国において農産物の持ち出しと農業生産性の変化についての調査を行うことで,輸出国側のモデル(農産物輸出と農業生産性の変化)を作ることができると思われる.
 こうして得られたシミュレーションモデルを世界各国に適用することで,環境汚染や収量低下の予測,およびその防止方法の検討に役立てることができる.
 また,GNPと農産物貿易量との間に弱い比例関係があることが分かったので,貿易量を経済の発展と関連させ,農産物貿易を従属変数として世界モデルに組み込むことにより,各国経済の発展と貿易にともなう窒素・リンの移動量について時間軸方向のシュミレーションを行いうる.