7 他国における窒素・リンのフローと人間活動






 前章では日本における人間活動由来のフローと自然界でのフローとの比較を行った.本章では日本以外の輸入国や輸出国において,貿易をはじめとした人間活動によりどのような影響が生じているかについて考察する.

 まず,日本と同様に人間活動に由来するインプットが高く水圏の汚染が進行している地域の例として,西ヨーロッパを取り上げる.次に,十分な栄養分の補給を行わずに大量農産物輸出を行っていると思われる発展途上農業国としてアルゼンチンを取り上げる.最後に,世界で最も多くの農産物を輸出しているアメリカ合衆国を例に,農産物輸出と農業の持続可能性について考察する.


7-1 日本以外の大量輸入国の現状−西ヨーロッパ諸国の例−

 5章では窒素・リンについて,人間活動による国土面積や農地面積あたりのフローの合計を計算し,世界各国について比較した.この結果を見ると,日本だけが高いインプットをもつ国となっているわけではない.同程度あるいはそれ以上のインプットをもつ国としては,国土面積1万km以下の国をのぞけば,オランダ・デンマーク・イギリス・ベルギー・韓国・ドイツ・北朝鮮・アイルランド・イスラエルなどが挙げられる(図7-1,2).本節では,それらの中でも西ヨーロッパ諸国に注目し,窒素についてそのインプットの大きさと自然環境への影響を検討する.





国土面積あたりのインプット

 日本においてもヨーロッパにおいても自然環境由来のインプットの量は面積あたりで見てそれほど違いがないと仮定すれば,国土面積あたりのインプットについてヨーロッパの各国を日本と比較することで,その影響を間接的に推測することができる.


 5章の結果を用い,ヨーロッパ各国の単位国土面積あたりの窒素のインプット(農産物貿易・肥料消費・漁獲)を表7-1に挙げる.これによれば,日本より大きなインプットをもつ国は,オランダ・デンマーク・イギリス・ベルギー・ドイツの5カ国となる.4章でも述べたようにオランダ・ベルギーは飼料穀物の輸入によって多くの窒素が流入し,家畜飼育にともなって発生する廃棄物に由来する窒素の放出量が大きくなっていると考えられる.さらに,日本よりも耕地率が高いこと,農地面積あたりの肥料消費量も多いことが重なり,国土面積あたりのインプットの合計はさらに高くなっている.一方,デンマーク・イギリス・ドイツは農産物輸入によってもたらされるインプットはそれほど大きくないが,肥料消費が非常に多くなっている.これら西ヨーロッパ諸国の中には,日本の2倍から3倍を超えるインプットをもつ国もあり,日本以上に深刻な環境汚染が生じている可能性が高い.


地下水汚染の実態



 西ヨーロッパは西岸海洋性気候帯に属し,日本に比べて降水量が少ない(600mm程度:日本の約3分の1).したがって,陸水へのインプットの増大による窒素・リン濃度の上昇はより深刻であると考えられる.OECD環境委員会(1992)は,西ヨーロッパ各国における地下水の硝酸塩汚染の現状を表7-2のように報告している.これを見ると,日本の環境基準である10ppmをはるかに超える25-50ppmという高レベルの硝酸態窒素汚染が,すでに日常茶飯事となっていることが分かる.さらにこの報告書の中には農場外から購入した飼料を利用した集約的な畜産が環境汚染に結びつくという問題も指摘されている.汚染の報告されている国は,5章で計算したインプットレベルの高い国とよく一致し,農産物貿易および過剰の施肥が汚染の原因となっていることが強く示唆される.(フランスで農業地帯での硝酸態窒素による汚染が深刻化している一方,同国の単位国土面積あたりのインプットがそれほど高くなっていないのは,国土面積が大きいために地域的な偏りが平均されてしまうためと考えられる.)


7-2 発展途上農業国の現状−アルゼンチンの例−

 発展途上国での農地への養分供給は,貧しい農業者にとって化学肥料を購入することは困難であるため,マメ科植物を利用した窒素固定や降水・大気降下物に限られる.したがって,現在の農業システムが変化しなくても,経済効率のみを追及して休閑を行わないなどの無理な耕作を続けることによって,地力の減退と収量の低下が起こる可能性がある.

 具体的にアルゼンチンを例にとって農業生産や貿易の変化を見てみることにする.コムギ・トウモロコシ・ダイズの生産(FAO Yearbook Production)と純輸出量(FAO Trade Yearbook)を窒素量に換算した結果(貿易についてはダイズかすを含む)を図7-3に,肥料消費の変化(FAO Yearbook Fertilizer)を図7-4に,農地面積の変化(FAO Yearbook Production)を図7-5に示す.


 これを見ると,アルゼンチンは農業生産のほとんどを輸出に回していることが分かる.また,窒素肥料の消費は農業生産の10分の1と非常に低く,農地からかなりの収奪が行われていることが分かる.さらに注目されるのは,1990年代に入って農地面積が減少していることである.輸出を目的とした大規模で収奪的な農業生産により農地が荒廃して放棄された結果である可能性がある.アルゼンチンのパンパなどのような肥よくな土壌に依存した粗放的な農業生産は,十分な肥培管理を行わなくてもある程度の生産性を上げることができるが,持続性に欠けるために将来生産性の低下を招く恐れがある.

 貿易と肥料消費量を比べると,窒素については純輸出国の合計34カ国中8カ国(モントセラト,パラグアイ,ソロモン諸島,アルゼンチン,ガボン,コンゴ,赤道ギニア,リベリア)は肥料消費を上回る輸出を行っている.リンでは輸出国26カ国中4カ国(モントセラト・アルゼンチン・パラグアイ,ウガンダ)が肥料消費以上の農産物を輸出している (表7-3).これらはすべて発展途上国であり,輸出を目的とした農業生産が農地からの植物栄養成分の収奪を招き,農地の荒廃が起きている可能性がある.




7-3 先進農業国における農業の現状−アメリカ合衆国の例−

 アメリカ合衆国では1972年農業法以降,輸出競争力のある農業の育成と保護を目的として,相互応諾と不足金払いという農業保護政策をとってきた(10章参照).輸出指向型・生産指向型のこの政策によって,農業者は単一作物をより広い耕地に植えつけ,多くの投入資材(化学肥料・農薬類など)を使用してでも高い収量を得ることを目指すようになった.なぜなら,より広い耕地を基礎面積として登録し,指定作物をより多く生産することにより,より多くの補助金を受け取ることが可能になるからである(Board on Agriculture National Research Council, 1992).つまり,合衆国政府は農産物価格の安定化と生産体制の管理を結びつけることで,制限のない増産を導いた.しかし,自由経済市場が実現されている場合には,過剰の生産はより激しい農産物価格の低下を招き,投入資材の利用による生産増加はもっと手前で減速されるはずであった.合衆国がとってきた農業政策は市場歪曲的なものであり,このために農業者は,持続性を無視して無理に連作を行い,それにともない大量の肥料・農薬類を使用するようになったと考えられる.同様な状況は旧ソ連においても生じていた.同国の窒素肥料消費は1987年をピークに低下を続けているが,これはソ連邦政府によって低く維持されてきた肥料価格が,政策の変更によって世界の市場価格に合わせられたことによる(Brown, 1996).このように,投入資材の利用は各国の農業政策により促進されてきたことが多い.経済的に有利だから肥料や農薬を使用しているはずだという考えは,現実には存在しない完全な自由市場を想定したものであり,正確な認識とは言えない.それはレポートにおける次の一節を見ても明らかである.「化学肥料や農薬は,しばしば,現在あるいは将来の補助金計画からの補助がなければ,採算がとれないほどの量が使用されている.(Board on Agriculture National Research Council, 1992)」

 一方,化学肥料の価格は化石燃料の価格やリン鉱石の埋蔵量などによって大きく影響を受ける.地球温暖化問題についての国際会議の結果,各国は二酸化炭素の排出規制を行うことで合意した(気候変動枠組み条約,1992年5月9日に合意し153カ国が署名した).したがって,今後工業的窒素固定に必要な化石燃料の使用は政策により抑制され,経済的に不利になっていくと考えられる.またリン鉱石は,石油ショック(1973)以降,埋蔵量の有限性が認識されるにともない資源ナショナリズム上の戦略物資となり,価格の上昇が続いている(小田部, 1981およびSlansky, 1986).このように,化学肥料の価格を巡る状況は決して楽観的ではない.

 すでに述べたように,窒素は大気という巨大なプールが存在するために,マメ科植物を輪作体系に組み込むことで農地に供給したり,脱窒により廃棄物から窒素ガスとして除去することが可能である.つまり,リサイクルを行わないでもある程度持続可能な農業や社会を維持できると考えられる.しかし,リンについては鉱石の採掘か廃棄物の再利用のみが農地に供給する方法である.反対に廃棄物中のリンについては,これを効率よく除去する技術は現在開発されておらず,富栄養化を防ぐためには埋め立てるか,肥料として再利用するかしかない.リン鉱石の埋蔵量は有限であり,上に述べたようにすでに肥料価格の上昇が起こっている.


 過去における化学肥料の大量消費は政府の不適切な農業保護政策や安価な肥料価格水準の維持などが大きな要因となってきた.しかし,こうした政策は各国の財政に圧迫を与え,現在ではそのような財政負担をともなう農業保護政策は切り捨てられていく傾向にある.肥料価格の上昇は農家経済における生産費を押し上げることになり,すでに化学肥料の経済性が疑問視され始めている.こうした状況下で農業者が安価に利用できる肥料資源として,マメ科牧草を利用した家畜の飼育とその排泄物の利用や植物残渣の有効利用などが注目されている.

 現在,アメリカ合衆国は,窒素肥料使用量の約3分の1,リン肥料使用量の約4分の1を輸出しており(巻末表参照),化学肥料の使用が削減された場合には,農地からの植物栄養成分の持ち出し過剰による地力の減退が問題となる恐れがある.あるいは,その前に生産性の低下により食糧輸出が減少することになるかもしれない.どちらにしても持続可能な農業を目指す限り,国境を越えた有機物の再利用システムを欠いたままでの大規模な農産物貿易は不可能になるといえよう.






[ Reference ]

Board on Agriculture National Research Council, 久馬一剛・嘉田良平・西村和雄監訳, 『全米研究協議会レポート 代替農業−永続可能な農業を求めて−』, 自然農法国際研究センター発行, 農山漁村文化協会発売, 1992, p.16

Brown, L., 『食糧破局−回避のための緊急シナリオ −』, 今村奈良臣訳, ダイヤモンド社 , 1996

F.A.O., FAO Trade Yearbook 1964-1992, 1966-1994

F.A.O., FAO Yearbook Production 1964-1992, 1966-1994

F.A.O, FAO Yearbook Fertilizer 1962-1992, 1964-1994

Graham, W. F. and Duce, R. A., "Atmospheric pathways of the phosphorus cycle", Geochimica et Cosmochimica Acta, vol. 43, 1979, pp. 1195-1208

OECD環境委員会, 井村秀文訳, 『地球環境のための市場経済革命−先進工業国の新環境政策−』, ダイヤモンド社, 1992, pp. 195-198

小田部廣男, 世界のリン資源の現状と将来, 『リンの生物地球化学的循環』, 文部省「環境科学」特別研究「リンの生物地球化学的循環」検討班編, 1981, pp. 68-84

Slansky, M., Geology of Sedimentary Phosphates, translated by Cooper, P., North Oxford Academic, 1986, pp. 169-178