第1部

農産物貿易および人間活動が
自然環境に与える影響の評価





序論


[ 背景および目的 ]

 地球化学的な側面から見れば,農産物貿易とは大量の物資をある地域から他の地域へと人為的に移動させることであり,その量が大きくなれば地球あるいは地域規模での物質循環に影響を与える可能性が考えられる.輸出国では農産物の持ち出しによる農地の疲弊,輸入国では有機物の大量持ち込みによる陸水の富栄養化などの影響が挙げられる.これらの問題は,農産物貿易によって窒素およびリンが一方的かつ大量に移動することによって起こると考えることができる.なぜなら窒素・リンのどちらも,植物の主要必須元素で肥料消費量も多く,かつ陸水の富栄養化の原因ともなっているためである.こうした影響を検討する一つの方法として,農産物貿易によって移動する窒素・リンの量を貿易統計などのデータから計算し,自然環境中のフローとの比較を行う,というものが考えられる.

 自然環境に由来する各国への窒素・リンのインプットとしては,大気からの降水・乾性降下物に加えて窒素では生物による空気中窒素の固定が考えられる.逆にアウトプットとしては河川による海洋および湖沼への流出に加え,窒素では脱窒・アンモニアの気化が含まれる.一方人間活動にともなう国内へのインプットとしては,農産物貿易に加えて,大気(窒素)や地下資源(リン)からのインプットである肥料消費,海洋・湖沼からのインプットである漁獲が含まれる(図0-1).





 三輪・小川(1988)は,日本において大量の農産物輸入に由来する窒素が環境の汚染に結びつく可能性を指摘し,土壌の脱窒機能や土壌有機物の分解速度の評価によって,日本の土壌生態系の持つ許容量を把握する試みを行っている.しかしこの研究は日本のみを対象としたもので,他国との比較は行われていない.また,窒素のみについての調査であり,リンについては検討されていない.熊沢(1989)はアメリカ合衆国やタイについて,農産物貿易による窒素・リン・カリウムの持ち出しとその量について言及している.また,加賀爪(1996)も主要国について農産物貿易による窒素収支を比較している.しかし,これらの研究も対象とする国あるいは元素が限定されており,世界各国について農産物貿易による窒素・リンの収支を体系的に計算して比較したものではない.また,農産物貿易が自然環境に与える影響については,単にその可能性が指摘されているに過ぎない.

 一方,図0-1を見ても分かるように,人間活動によって生じる各国への窒素・リンのインプット・アウトプットには,農産物貿易だけでなく,肥料消費や漁獲も含まれる.しかし,こうした複数の項目を対象として分析を行った研究は今まで行われてこなかった.

 リンについての研究が少ないのは,リンが土壌中で迅速に固定され容易に溶出しないという事実(久馬ほか, 1984)によると思われる.しかし,畜産業から発生する家畜糞尿が野積みされる結果,高濃度のリンを含む表面流去水が河川水に流入し,水質汚濁につながるという可能性が指摘される(大村, 1995)など,有機廃棄物中のリンについても現在注目が集まりつつある.

 カリウムは窒素・リンと並び植物の3大栄養素として知られており,肥料としての消費量も大きい.したがって,農産物の輸出にともなうカリウムの持ち出しにより,輸出国農地では収量の低下などが起こる可能性がある.しかし,カリウムについては自然環境中の循環に関する研究成果が少なく,自然条件でどの程度の量のカリウムが土壌に供給されているのかを把握するのに十分なデータを収集することは,現時点では困難である.一方,輸入国では農産物輸入にともないカリウムのインプットが増加していると考えられるが,日本では湖沼等における水質基準にカリウムは加えられておらず,富栄養化の原因物質とは考えられていない(環境庁, 1995,および多賀・那須, 1994).したがってカリウムについては,人間活動にともなうフローと自然環境中のフローとの比較は行わなかった.ただし,カリウムについても農産物貿易にともなう移動量や肥料消費量を調査することは可能であるので,基礎データとしてそれらの値も挙げることにする.

 以上の点を踏まえて第1部では,まず総体としての人間活動と地球全体の窒素・リン循環との量的比較を行う.つぎに世界各国について農産物貿易および肥料消費・漁獲にともなう窒素・リンの収支を計算し,各国の間で窒素・リンの収支にどの程度の偏りがあるかを把握する.さらにこのデータを用いて,人間活動にともなう窒素・リンのフローと自然界のプール・フローとの量的な比較を行い,現在の農産物貿易および農林水産業が陸水の汚染や農業の持続性に与える影響を定量的に把握する.

[ 手順 ]

 第1部は7つの章からなる.以下に本研究がとった手順を,取り扱う章とともに挙げる.

・過去の研究を参照して,地球全体について自然環境中の窒素・リンの循環を定性的・定量的に把握する.さらに人間活動にともなう窒素・リンのフローの総計を統計値より計算し,人間活動が自然環境中の窒素・リン循環に与える影響について考察を行う(1-3章).

・貿易統計および各農産物の成分組成データを用いて,日本を含めた世界各国について農産物貿易による窒素およびリンの収支を求める.さらに人口・国土面積・農地面積あたりの貿易量を計算して各国を比較する(4章).

・貿易以外の人間活動(肥料消費および漁獲)による各国への窒素・リンのインプットをもとめ,貿易収支と合計して人間活動に由来するフローの総量とする.また各国の合計されたフローについて,国土面積・農地面積あたりに換算して比較する(5章).

・日本の自然環境中の窒素・リンのフローを文献値から計算する.この結果を,4-5章で計算した貿易による収支およびフローの合計と比較し,人間活動が自然環境に与える影響を検討する(6章)

・世界各国について農産物の輸入あるいは輸出がもたらす影響を検討する.輸入国については,単位国土面積あたりの輸入量およびインプットの合計を日本と比較し,陸水の汚染との関連性について考察する.輸出国については,輸出量を肥料消費量と比較することで,輸出国の土壌から持ち出される正味の窒素およびリンがどの程度の量になっているかを計算し,農産物輸出がその国の農業の持続性に与える影響を検討する(7章).





[ Reference ]

加賀爪優, 環境保全型農業と食糧貿易の自由化, 『環境保全型農業論』, 桜井倬治編, 農林統計協会, 1996, pp. 250-268

環境庁, 『環境白書(各論)−平成7年度版−』, 大蔵省印刷局, 1995, pp. 156-157

熊沢喜久雄, 地力、農法、環境保全, 『環境保全型農業の展望』, 久宗高監修, 農林中金研究センター編, 農文協, 1989, pp. 9-44

久馬一剛・庄子貞雄・鍬塚昭三・服部勉・和田光史・加藤芳朗・和田秀樹・大羽裕・岡島秀夫・高井康雄, 『新土壌学』, 朝倉書店, 1984, pp. 84-86

三輪睿太郎・小川吉雄, 集中する窒素をわが国の土は消化できるか, 『科学』, vol. 58, no. 10, 1988, pp. 631-638

大村邦男, 家畜糞尿の活用と酪農地帯の環境保全, 『北海道土壌肥料研究通信 第42回シンポジウムと特集 物質循環からみた環境保全』, 北海道土壌肥料懇話会編, 1995, pp. 17-24

多賀光彦・那須淑子, 『地球の化学と環境』, 三共出版, 1994, pp. 140-146