総合考察







 第1部における議論から,現在の日本は環境容量を上回ると考えられるほどの農産物を輸入しており,貿易に由来する自然環境への負荷量の増大が,陸水の富栄養化・地下水の汚染の原因の一つとなっている可能性が指摘された.第2部の議論では,現在のような大量の農産物貿易は,経済成長にともなう畜産物消費量の増加が大きな要因であることが指摘され,アジアを中心とした途上国の急速な経済成長と,先進農業諸国の政策変更による環境保全型農業へのシフトを考慮すると,今後の食糧需給は長期的に逼迫すると予想された.

 筆者は現在の日本における農業と食料供給システムに大きな危機感を抱いており,日本も食糧自給を目指すべきであるという観点から以上のような分析を行ってきた.しかしながら,本研究で述べられたデータや議論がすなわち,農産物貿易は行うべきでないとか,食糧を自給すべきである,ということにはならない.農産物貿易あるいは食糧自給の是否に関してより客観的に判断を下すためには,更に幅広い分野にわたる議論の展開を行わなければならないだろう.しかし残念ながら,現在の筆者にはその能力は存在しない.したがってここでは日本における食糧自給の是否を,南北問題と地球環境問題という2つの軸に絞って考察することにしたい.さらに,現在のような大量の農産物輸入にともなって国内に流入する窒素・リンを,農業生産のために有効に活用するためのリサイクルシステムの可能性と,実現する上での問題点について具体的に検討する.最後に,深刻化する環境問題を解決しつつ,国民に安定した食料供給を行っていくために,日本はどのような政策を取ることができるのか,筆者の考えを述べることにしたい.


日本における食糧自給の是否

 本研究を進めるにあたって,一つ気づいた大きなことがある.それは,国際社会がすでに大きな変革期を迎えているということである.米ソの冷戦の終結の後,国際政治における最大の懸案事項は軍事から地球環境問題へとシフトし,その解決にむけて開催された国際会議の場においては,各国の経済格差すなわち南北問題が国家間の激しい対立を生んでいる.南北問題は自然環境の悪化・貿易摩擦・地域紛争などといった数多くの問題の根本的原因かつ結果となっており,今後の国際関係を支配する最大の要因となると考えられる.したがって,その解決なくしては日本一国の安全保障もありえない.しかるに現在の日本国政府は過去の歴史に拘泥し,今もってアメリカ一辺倒の外交から脱却しようとせず,同国とともに世界からの孤立を深めている.

 世界貿易の拡大によって所得格差がなくなり,南北問題も解決するというのは正しい認識とは言い難い.その極端な例がタイやフィリピンにおける開発援助であろう.日本商社の参入による,輸出を目的としたエビの養殖やバナナの生産がもたらした結果は何か?それはマングローブ林の破壊であり,極貧のバナナ農園労働者集団の存続であった.それは援助という名の収奪であり,環境問題の輸出である.こうした「援助」によって,より一層の経済不均衡と治安の悪化が生じ,ひいては各国の投資環境を悪化させ,いきおい軍事政権など非民主的な権力体制を生むことになっている.日本が現在のような繁栄を維持するためには世界の平和が不可欠である.そのために必要なのは各国の経済格差をなくすことであって,防衛費を増やすことではない.真の不安定要因は軍事的不均衡ではなく,経済的な不均衡である.

 では,実際にどのようにすればそれが可能となるのか?そのためにはまず輸出をへらし,貿易黒字を圧縮することである.国際貿易においては一方的な黒字や赤字が存在すれば摩擦を起こすのが当然で,いくら日本が市場解放したところで,その巨額の貿易黒字がなくならない限り必ず国際的な緊張を生むし,途上国の対外債務もなくならない.輸出を減らして収支の悪化が問題となるならば,輸入を減らすことを考えるべきである.日本が綿やバナナを輸入すれば,それだけ途上国における主食用作物の作付け面積が減る.途上国が食料供給を海外からの輸入に頼ることは,輸出品としての農産物や資源価格が不安定であることから非常に危険であり,実際に途上国では出品価格の下落が対外債務を増やす要因となっている.金に任せて世界中から飼料用作物を買い集めることはいたずらにその国際価格を上昇させる.輸出国の農業者は主食用の穀物よりも,価格の高い飼料用穀物の生産を行うようになり,途上国が輸入する主食用穀物の価格も結局上昇することになる.こうして先進国の飽食と途上国の飢餓という構造は継続することになる.日本においても食糧は輸入するのではなく自給すべきであるという考えは,こうした背景を考慮すると一定の根拠を持つように思われる.南北問題・飢餓の解決と先進各国の資源・食糧自給は切っても切れない関係にある.

 そこで日本においても国内農業の育成が必要となるのであるが,ここで重要なのは,化学肥料や農薬類を利用し,大型機械で深く耕す,といった資源集約型の農業はもはや時代遅れであるということである.ECでも合衆国でも,投入資材を削減し,エネルギー効率を高めた農業はすでに主流となりつつある.欧米ではAlternative Agriculture(次世代農業)やLISA(Low Input Sustainable Agriculture:低投与持続型農業)などという呼び名ですでに膨大な研究結果が積み重ねられてきている.そうした技術の確立とともに,農業者への新技術の普及が進められているのが現状である.日本の農業政策もそうした時代の潮流を見極めたものとなるのが当然だろう.大規模化と専作の推進を主眼とした現行農業法の方針はすでに時代遅れとなってしまっている.

 次世代の農業技術は,1)生物防除や害虫の予察を含めた総合防除により農薬の使用をできるだけ削減する,2)機械除草を利用して除草剤の使用量を削減する,3)マメ科植物を含めた輪作や堆厩肥の利用促進によって化学肥料の使用をできるだけ抑える,4)牧草などの粗飼料生産を効率的に利用して畜産物を生産する,5)飼育環境を改善して健康な家畜を育てることで抗生物質などの使用量をできるだけ削減する.などといった要素を組み合わせることで,農外投入資材の使用を極力削減し,生産費の削減によって利益率を上げることを目的とする.実際に財務状態を分析した結果,十分に経済的に成り立つことが多いことがわかっている(Board on Agriculture National Research Council, 1992).日本においてもこうした低投与型の持続ある農業体系の開発と普及が望まれる.しかし当然のことながら,日本と欧米との風土の違いを考慮すれば,欧米で開発された新しい農業技術をそのまま日本に適用するわけにはいかない.稲作や田畑輪換を含めた日本独自の新しい農業技術体系を開発することが研究者に求められている.

 また,そうした技術的課題の解決だけでは日本農業の再建は不可能である.新しい農業を普及・実行するためには,その担い手である農業者が必要となる.しかし,現在の農村は過疎化が極端に進行し,すでに労働力はほとんど存在しない.一方都市生活者には,その日常に疲れを感じ,農村での生活と農業生産への参加に魅力を感じている人々が増えている.こうした人々が農村に入ることができれば,活気ある農村の復活と日本農業の再建に近づくことができる.しかし,現在のような極端に高い農地価格が下がらない限り,土地を持たない都会の人間が新しく農業を始めることはできない.このため,政策的に農地価格を宅地などから分離して低く抑え,新規就農者にも購入可能な水準とすることが必要となる.また,新規就農者は環境保全型の農業を行うわけだが,技術が確立しある程度の生産をあげられるまでは,デカップリングによる所得補助(9-4参照)が必要となろう.すなわち,保全型農業に実行し,農業生産に励むことを条件に政府から給料を支給するのである.デカップリングによる農業保護政策は,ガットウルグアイラウンドで禁止された市場歪曲的な保護政策には当てはまらず,諸外国から批判を受けることはない.日本の高い農産物価格は,その大部分が流通業者のマージンによるものであるといわれている.したがって,新規就農者を中心に地方へと人が分散し小規模な地場流通が確立すれば,農産物価格は自然に下がるだろう.農地を中心とした有機物リサイクルシステムの実現も容易になる.

 さらに途上国に対する援助にも質的な転換が必要となる.電化や水道普及といった事業は,経済が発展した後で自ずから必要になるものであろう.まず第一に必要なのは農業技術の普及と技術者の養成,および教育の普及である.そうして,各国の食糧生産を伸ばし,対外収支を改善した後で,工業の発展や経済の成長を行えばよい.ダムや発電所などの建設はその後で十分である.

 最も大切だと思われるのは,日本は一国だけで存在しているわけではなく,少数の国との関係で存在しているのでもなく,すべての国や人々とつながっているのだという認識である.我々の食卓は,好むと好まないとに関わらず,合衆国の農地やアフリカの飢えた人々と直接・間接的に結びついてしまっている.そして,このような認識を持つことは当然,アメリカ一辺倒の外交からの脱却と,多国間交渉の場での積極的な外交,そして途上国へのより一層の援助拡大を意味する.ここで重要なのは,援助といっても,日本企業や現地資本の利益になるようなものではなく,本当にその国の立場に立って,何が一番必要なのかを一緒に考え,実行することである.援助の額やプロジェクトの規模が重要なのではない.

 そうした国際社会の中で,貿易を縮小して自国と途上国の食糧自給に励むことは,まわりまわって世界の平和と日本の安全保障につながるものである.個人の利害とは離れて存在する政府にはそれが可能なはずである.


環境保全型農業技術に向けた廃棄物利用の可能性について

 今後の農業の主流は投入資材の使用を削減した環境保全型の農業になっていくと考えられるが,ここではこうした農業技術の一環として,窒素・リン肥料資源の一つである有機質廃棄物の再利用について検討してみたい.

[ 廃棄物中の窒素およびリンの量 ]

 農地から持ち出されたり,輸入された農産物は最終的に以下の3つのタイプの廃棄物となる.

・人間の排泄物
・家畜の排泄物
・生ごみ

 現在の日本で,農業生産・農産物輸入・漁獲によって廃棄物となる窒素・リンは210万t・110万tである(6章および9章).一方人間の排泄物原単位は,窒素で9.0×100g,リン(P2O5)で9.0×10-1g(富岡, 1993)であるから,人口を1億2000万人として一年で人間の排泄物となる窒素・リンはそれぞれ約39万t・約17万tとなる.また,家畜排泄物は1億8000万人分という計算を採用すると家畜排泄物は人間排泄物の1.5倍となり,窒素で59万t,リンで約26万tとなる.生ごみはその残りで,窒素が約110万t,リンが約67万tとなる.

 また,1987-1992年の平均で日本の窒素・リン肥料消費はそれぞれ62万tと31万tであり,廃棄物中の窒素・リンの約3分の1にあたる.


[ 廃棄物の処理状況 ]

人間の排泄物
 人間の排泄物は下水を通って処理場に運ばれ,汚濁除去処理を受ける.このとき窒素・リンの一部は下水汚泥中に入る.汚濁処理における窒素・リンの除去率を上げることは,河川水・湖沼水の富栄養化を防止するために非常に重要である.一方,ほとんど窒素・リンが下水から除去できたとしても,発生する大量の汚泥には依然として多くの窒素およびリンが残ることになる.したがって,最終的に人間の排泄物由来の窒素・リンがどのような形で環境に負荷されるかは,下水処理場での除去率と,下水汚泥の処理状況によって決まる.

 下水汚泥資源利用協議会(1996)によれば,肥料として窒素・リン成分が有効利用されている汚泥は52万7千m3と全汚泥量(230万7千m3)の約23%程度に過ぎず,その大部分(62%)は埋め立て処分されている.

家畜排泄物
 家畜排泄物は農業関連の廃棄物であるために有効利用される割合も高いと予想される.しかし,日本の畜産業は経営内に農地を持たず,購入飼料に依存した加工型の畜産が主流であるうえ,家畜飼育密度が高いために,実際に堆厩肥として有効利用される量はそれほど多くない.北海道を例にとると,多くの酪農家では経営規模の拡大に対して糞尿処理施設の整備は遅れており,これらの施設を保有している酪農家でもその60%が貯蔵容量の不足を訴えている.処理施設の不足や飼料の質による糞の軟化,敷料や自家用農地の不足などは,糞尿の野積みや土壌浸透などといった不適切な処理につながり,酪農関連排水による悪臭や水質汚濁などの問題を引き起こしている(大村, 1995;志賀, 1995).

生ごみ
 生ごみは地方自治体により集められ,通常は焼却処分される.しかし,焼却されても生ごみ中の窒素の一部とリンの大部分は焼却灰中に残る.焼却灰は埋め立て処分されている.

 以上のように,現在廃棄物中の窒素・リンは,畜産廃棄物のように放置されて河川水の汚染に結びつくか,埋め立てられて再利用されない分がほとんどである.一方,埋め立て処分地の不足や堆厩肥の流通システムの不備により,廃棄物の処理問題は年々深刻さを増している.上に述べたように,廃棄物の3分の1は現在の肥料消費水準を仮定すれば農地に還元できるのであるから,その有効利用技術の開発に力を入れることが有効であると思われる.

 廃棄物の堆厩肥化においてまず問題となるのは,水分含量を下げることである.畜産においても,稲の敷きわらの不足などによって畜舎の床をふん尿がスラリー状に覆っているというところも珍しくない(大村, 1995).しかし,ムギやその他の穀物の生産を組み合わせ敷き料の確保を進めれば,同時に農業生産の増加にもつながり,日本農業の総合的な自給率向上を実現できる.

 次に問題となるのは,生ごみや下水汚泥への重金属・不純物の混入である.一度混ざってしまったものを再び分離するというのは非常に非効率的で,技術的にもほとんど不可能といってよい.したがって,家庭からの下水をし尿とそれ以外に分けると同時に,工業廃水や雨水の混入を避けるために下水道を分離する,という分別処理のシステムを下水処理にも導入することが重要であろう.また,生ごみについても徹底した分別処理を行うことで優良な堆肥を作ることは可能で,すでに実現している自治体もある(ソーラーシステム研究グループ, 1985).


環境問題へのアプローチと日本農政についての提言

 本研究のテーマは農産物貿易と物質循環であるが,そこから生じる問題の一側面として陸水の汚染といういわゆる環境問題が存在する.研究を進めていく過程において,この環境問題という言葉やそのイメージに付きまとう誤解や思い込みに数多く遭遇することになった.これは環境問題が比較的新しい分野であることによるともいえるが,それよりもこの問題がさまざまな人々の利害関係やものの考え方などと直接関係してくる,社会的であると同時に個人的な問題であるため,といった方が正確であるように思われる.

 環境問題に対しては人それぞれ多様な意見を持っている.その中にはほとんど狂信的とすら思えるものから独善的なもの,退廃的なもの,虚無主義的なもの,現実主義的なものまでさまざまである.そういった議論には一方的な思い込みや無知から来る誤った現状認識が往々にして含まれるものであり,そこから生じる非建設的な議論には耳を覆いたくなるものが多い.本研究はそれらの議論の方向を修正し建設的な議論に結びつけるための一つの試みであった.

 しかし,現実に個人の手で学術的な厳密性を保ったまま問題点のすべてを扱うことはできない.したがって,実際に行ったことは基礎研究成果の収集とそれを基にしたデータの比較・問題点の洗い出しにとどまることとなった.それすら十分とはいえず,結果の厳密性や妥当性については今後各研究者の批判と検討にゆだねることになる.

 一方,環境問題の解決に向けたアプローチの手法は,本研究がとったものに限られるわけではない.そこにはいくつかのレベルが存在する.
・環境問題はそもそも存在するのか?問題点の有無とそのスケールを把握する.
・どうして問題が起こるのか?環境問題を生む原因を究明する.
・どうやって解決するのか?技術的・政策的解決方法を検討する.
 本研究は1および2にまたがるレベルでの考察を行ってきたが,実際の議論はすべてが絡み合って進んで行くものであり,どれ一つを欠いても問題を解決することはできない.残念ながらここで技術的・政策的解決方法についての十分なレビューと考察を行う余裕はない.しかし,環境問題の解決に向けた対応に関連する問題点が,さまざまな資料を検討するにつれ次第に明らかになってきた.そこで以下に簡潔に述べてみよう.

 現在我々が環境問題に対して行っている解決方法は,要素別の問題点の把握と,それに対する(罰則を含めた)規制である.具体的には,工場や家庭に対する排水規制であったり,農薬や食品添加物に対する認可制度や使用規制などが挙げられる.また,これから将来にわたってもそういった姿勢で問題解決に望むことが多いであろう.このような基本姿勢を前提として,研究者自身も「問題点の把握こそが大切で,そのスケーリングさえできれば後はそれに応じて規制を行えばよい」,と考える傾向があるように思われる.

 しかし,実際に規制を行う段階になると,さまざまな利害関係が複雑に作用することになる.環境基準に対する科学的根拠はあいまいであることが多く,(そもそも科学と規制基準という考え方はなじまない),規制そのものに対する反論も容易である.(これは水俣病やベトナムでのダイオキシン問題などにおいて疫学調査の科学的妥当性が問題となり,対応が遅れたり,問題の存在自体が否定されたりしたことを見れば明らかであろう.)このため規制自体が底抜けになったり,利害者団体同士の対立を生んだりすることが多い.そもそも問題を解決するためであったはずの規制が,現実には問題解決につながらないだけではなく,さらに新たな問題を生じるという矛盾に我々は悩まされている.また,規制を増やすことは政府を市場経済に介入させることであり,自由競争を阻害することになる.そこから生じる市場の硬直化と財政の肥大化は,すでに日本において深刻な問題となっている.したがって,規制による環境問題の解決は一見効果的であるように見えるものの,実際に効果を上げることは難しい.

 ではどのようにすれば現状を改善し,問題の解決に近づくことができるのか?筆者は,行政が利害関係の調整だけではなく,潜在的な問題の解決に向けた研究・開発努力を率先して行うことが一つの道であると考えている.これは合衆国における代替農業体系の研究から洞察を得たものであるが,具体的にいえば次のようになる.
 化学肥料の施用は過去において収量の増加と労働生産性の向上に貢献した.しかし,その行きすぎた使用は地下水や河川水の汚染に結びつく「可能性」が存在する.その影響を実際に測定し,評価することも大切だが,大量の化学肥料を利用しなくても一定の収益性を確保する「技術」が存在すれば,化学肥料の大量施用がもたらす「潜在的な」被害を抑えることができる.それは,土壌養分含量の測定を利用して適切な施肥を行う技術体系の確立であるかもしれないし,土壌溶液中の無機イオン濃度を過度に上げることなく,徐々に分解して植物に養分を供給する有機質肥料の施用技術を取り込むことかもしれない.しかも,大量の化学肥料の施用をやめることは農業生産に必要な費用を削減し,過大な投入資材購入費に苦しむ農家の財務状態を向上することにもつながる.行政は,利害関係の対立を調整する立場から,こうした一石二鳥型の「技術」の開発に力を注ぐべきである.
 化学肥料の施用が環境に悪影響を及ぼす可能性があるからといって,それを即座に禁止したり規制するのではなく,他の代替的な技術の確立に力を注ぐのである.そうすることで,より本質的な問題解決につなげることができる.以上のような一例は,他のさまざまな問題に当てはめることができる.たとえば二酸化炭素の排出と地球温暖化問題について,次のようにいうことができるのではないか.
 化石燃料消費の増加にともなう二酸化炭素排出量の増加は,大気中の二酸化炭素濃度の上昇や,地球の平均気温の上昇に結びつく「可能性」が存在する.その影響を実際に推測し,評価することも大切だが,大量の化石燃料を消費しなくても一定の産業活動を行える「技術」が存在すれば,化石燃料の大量消費がもたらす「潜在的な」被害を抑えることができる.しかも,化石燃料の消費を抑えることは,エネルギー効率の向上や,より持続的な産業活動の実現にもつながり,さらに,酸性雨問題への「潜在的」影響をも減らすことができる.行政は,利害関係の対立を調整する立場から,こうした一石二鳥型の「技術」の開発に力を注ぐべきである.
 つまり,ガソリンや燃料への課税を増やすことも必要かもしれないが,もっと大切なのは,ガソリン税を自動車の増加につながるような道路の建設ではなく,より燃費の良いエンジンの開発や便利で効率の良い公共交通機関への投資に使うことである.あるいは,長距離輸送を必要としなくなるような,農産物の地場流通システムを確立することである.こうした努力によって,交通量を有効に減らしたり,排気ガスの量を削減し,地球温暖化に対する「潜在的な」影響を減らすことができるのである.

 こうした考えから,本論文の主題である農産物貿易についても以下のように述べることができよう.
 農産物輸入の増加にともなう日本への窒素・リンインプットの増加は,地下水の硝酸態窒素による汚染や,窒素・リンによる陸水の富栄養化に結びつく「可能性」が存在する.その影響を実際に測定し,評価することも大切だが,大量の農産物を輸入しなくても日本国内である程度の農産物を自給できる「技術」が存在すれば,農産物輸入がもたらす「潜在的な」被害を抑えることができる.しかも,農産物の輸入量を減らし自給に努めることは,農村の過疎化における防止や,途上国の安定した食料供給にもつながる.行政は,利害関係の対立を調整する立場から,こうした一石二鳥型の「技術」の開発に力を注ぐべきである.
 日本における現在のような大量の農産物輸入は,豊かな社会をもたらした経済成長と,高い国産の農産物価格を考慮すれば必要悪だということもできる.しかし,そうした条件の中でも実行可能な,高い生産性と安全性を持つ農業技術を開発し,国内で有効な農業生産システムを作り上げることができれば,多くの問題が一度に解決する.最初からあきらめてしまうことなく,少しでも現状を改善するために慎重かつ積極的に議論を行っていくことで,より明るい未来が開けてくる.





[ Reference ]

Board on Agriculture National Research Council, 久馬一剛・嘉田良平・西村和雄監訳, 『全米研究協議会レポート 代替農業−永続可能な農業を求めて−』, 自然農法国際研究センター発行, 農山漁村文化協会発売, 1992

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