優れた教科書 (東京新聞/中日新聞 2001年7月24日 夕刊 科学面 掲載)

 世界中で書かれる科学論文の約七割は、米国で生産されている。米国には世界中から研究者が集まり、良い研究条件の下で次々と成果を挙げている。実は、米国の科学研究の興隆は、この国で優れた教科書や啓蒙書が次々と書かれてきたことと無縁ではない。

 最先端の研究成果が生まれるためには、それを支える若い研究者の集団が必要だ。米国には、ノーベル賞学者を頂点として、非常に厚い研究者層がいる。若き学徒のために、米国の世界的な研究者は、優れた教科書を書いている。

 ノーベル賞受賞者のファインマンとワトソンは、それぞれ物理学と分子生物学に関する画期的な教科書を書いた。これらはいずれもロングセラーとなり、世界中で読み継がれている。私の周囲にも、彼らの書いた教科書を読んで研究者を目指すようになった科学者が、何人もいる。

 優れた教科書と啓蒙書は、優秀な研究者の卵を育てる。のちに世界的な業績を挙げるようになった研究者は、新たに優れた本を書く。米国の科学の底の厚さは、このような良い循環の基に生み出されている。

 近年、日本でも優れた啓蒙書が出てきた。例えば、「地震・プレート・陸と海」(岩波ジュニア新書)は、地球科学の基礎を分かり易く明快に解説した名著である。著者は、地震を用いて地球の内部をリアルに描き出すことに成功した研究者だ。元来この本は高校生向けに書かれたものであるが、私は一読し、その説明の鮮やかさに驚いた。優れた啓蒙書は優れた研究者にして初めて書かれるものだ、という感を強く持った。

 米国の大学では、七年ほど教育をすると、サバティカルと呼ばれる一年間の有給休暇がもらえることが多い。その間に、教育熱心な教員は厚手の教科書を書き上げる。これに比べて、日本の大学教員はあまりにも忙しすぎ、本を書く余裕がほとんどない。それが日米の格差をますます広げていることには、あまり注意が払われていない。基礎科学の研究を興隆させようと思ったら、科学者の卵のために、もっと積極的に投資しなければならない。

 

 

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