阿蘇山-火山学者漱石誕生!? 

 夏目漱石の『二百十日』にこんなくだりがある。

 「・・・それより早く阿蘇へ登って、噴火口から赤い岩が飛び出す所でも、見るさ。―しかし。飛び込んじゃ困るぜ。何だか少し心配だな」

 「噴火口は実際、猛烈なものだろうな。何でも、沢庵(たくあん)石のようなものが、真赤になって、空の中へ吹き出すそうだぜ。それが三四町四方一面に吹き出すのだから、さかんに違いない・・・」

 漱石は若いころ、旧制の第五高等学校(現在の熊本大学)の教授をしていたことがある。明治三二年九月初め、友人の山川伸次郎と阿蘇山に登った経験をもとに、この短編は書かれたらしい。

 漱石くらい偉い人になると、いつだれと山へ登ったかまで、全集には書いてある。

 二百十日とは、立春から数えて二百十日めの日をさす。だいたい九月一日にあたる。このころよく台風が来ると、昔からいわれている。よりによって大嵐の日に、ひどい苦労をして登った珍道中を、漱石はコミカルに活写している。

 自然描写がじつに見事で、私の好きな短編の一つだ。

 漱石自身は、締めきりにせまられて書いたものらしい。「ずさんの作にてお恥ずかしき限り」と書き残しているが、彼一流のはにかみではないかと、私は思っている。

 阿蘇山は、漱石の時代も現在も、ときどき爆発をおこす活火山である。昔も今も盛んに蒸気を上げている。

 阿蘇山は世界有数のカルデラ、として習った人も多く、九州一の観光名所でもある。少し地学に詳しい人だと、九州を焼きつくした火砕流を出した火山として、知っているかもしれない。

 阿蘇山は、私にとって、火山学を始めるようになった山である。そういう意味で、たいへんに思い出ぶかい火山だ。阿蘇山には、重要な人生の岐路があったのである。

 ここで私は、研究上の師匠に出会うこととなった。

 私がなぜ火山を研究するようになったかについて、最初に書いてみたい。火山はすごい、と思うきっかけとなった話だからである。

 

落ちこぼれ学生

 授業やゼミで、火山の写真をたくさん見せる。「昔から火山に興味があったんですか?」とよく聞かれる。 実は、大学のころは全く興味がなかったのだ。理学部の地質鉱物学科に進学していた。一応は、実験室にこもって鉱物の結晶構造なんぞを調べていた。

 「一応は」と書いたのがミソで、その実、全然やる気のない学生だった。恥ずかしながら、さっさと就職して給料もらって、優雅な独身貴族やろうと思っていた。

 私自身、大学で延々とモラトリアム人間(人生の決断をせずいつまでも猶予状態に浸っている人)を続けるのは、気が進まなかった。モラトリアム人間というのは、私の学生時代からはやり始めた懐かしい言葉だ。私には、正直言って研究のおもしろさが分からなかった。ぜんぜん熱中できるものではなかったのである。

 もう少し正確にいうと、地質学を学ぶことには興味があったけれども、その勉強が一生を捧げる対象になるとは思えなかった。今では全く反対だ。

 地球について勉強するだけでも、一生を打ち込む価値があるくらい、おもしろい。そのおもしろさを学生に伝えようと頑張ってもいるけど、なかなか分かってもらうのは難しい。

 とにかく当時の私は、同級生の中でも、おもしろさにほど遠い、落ちこぼれの学生だった。そこで四年生の時に試験を受けた。学部を出たらすぐに就職することにしたのだ。

 一九七八年の夏、当時は石油危機のあとで、地学関係の就職は冷えきっていた。私は会社へ入ることを断念し、公務員試験の単騎待ちに賭けた。理学部の学生にとって、マジメに就職試験を受けるなどというのは、本道からはずれた行為だ。公務員試験は当時も倍率が高かったから、宝くじを買うノリでみんな受験に行ったものである。しかし私はけっこう真剣だった。私のようにロクに勉強していない学生には、試験当日だけが勝負、という都合のよい仕組みだったからである。

 私は、科学の研究から離れた仕事につこうと思った。暑い夏の盛りにネクタイを締めて官庁回りをはじめた。しかし、希望していた部局では「ウ〜ム、君は地質職で受けたのか。今年は取らないから来年おいで」とすげない返事。

 結果的にはエライ人たちの取り計らいで、採用してもらえることにはなった。地質調査所という名前の、どうやら研究所らしいところに入ることとなった。「地質調査所って、いったい何するところだ?」私だけでなく、友人も知らなかった。

 最初は落胆もしたが、そもそも独身貴族になることが目的だったので、まあいいかと気軽に就職を決めてしまった。きわめて意識の低い研究官として採用されたわけである。のんびりした古き良き時代であった。

 そして、研究が本当におもしろくなってきたのは、しばらくたってからだった。阿蘇山に出会ってからのことだ。

 

火山学ことはじめ

 入所一年目。九州の地熱プロジェクトに参加することになった。大分県と熊本県にまたがる「宮原」(みやのはる)という地域だった。野外で調査をして、地質図を作ることとなった。

 地質図というのは、地表の岩石や土を表現した色刷りの図面のことをいう。岩石がいつの時代のもので、どういう順番で積もって地層となったのか、といったことを表したものである。これはなかなか美しいものである。(口絵カラー写真8参照)

 いろいろな技法を用いて、地下構造が立体的に読みとれるようにも工夫してある。たとえば、地層がどういう変形を受けてきたのかということも分かるように書かれている。地層の変形というのは、断層や褶曲(しゅうきょく)のことだ。活断層なども書き込んであるわけだ。

 地質図には薄い色で、地形を重ねて刷り込んである。また、地面を縦に輪切りにしたような断面図というのも、必ずそえられている。これらをうまく使うと、立体的な地下の構造を、頭の中にイメージすることができるのである。地質図の読み方に慣れてくると、パッと見ただけで、良くできた地質図かそうでないかが分かるようにもなる。

 さて、地質図づくりでは、地表の岩石を歩いて調べるフィールドワークをまず行う。歩く地域は、国土地理院の発行している五万分の一地形図の範囲である。ここを隅々まで歩くことからはじまる。来る日も来る日も、地層を観察しながらコツコツと山を登って地質図を作る。まさに職人のような仕事である。

 一九八〇年の三月、はじめてフィールドワークに連れていってもらった。九州の阿蘇カルデラだった。火砕流台地の風景があまりにも感動的で、私は最初から完全にハマってしまった。ここはゆるやかな台地の上に、見渡す限りの草原が続いている。はるか向こうに九重火山が見え、うしろには阿蘇の火口丘が白雲をたなびかせている。日本離れしたすばらしい景色であった(図1-1)

 

軽石にやどる小宇宙

 熱中するようになった理由は風景だけでない。いっしょに歩きながら火山学の手ほどきをしてくれた、小野晃司さんの真摯(しんし)で学問的な姿勢に強く惹(ひ)かれたこともある。彼は、阿蘇山から噴出した堆積物を、次々と私に示した。それがどうやってできたか、なぜここに堆積したのかを、分かりやすく説明してくれた。単に岩石の名前を教える、というのではまったくなかった。

 私には全てが驚きだった。初めて見た堆積物は、色とりどりで不思議な形をして、おもしろかった。それだけでない。そのような岩石のなりたちについて、ちゃんと解説する人がいるということに、新鮮な感動を覚えた。しかも、その説明はきわめて明快だった。論理的で分かりやすかった。火山について勉強したことのない私にも、たちどころに理解できた。

 たとえば、軽石ひとつをとっても、懇切丁寧な説明がはじまった。軽石の泡の形は規則性があり、できた場所を反映している。軽石はふつう白いものだが、例外的に黒っぽい軽石がある。化学組成は白い軽石と同じなのに、である。阿蘇にはそのめずらしい黒い軽石があった。

 それらのでき方には違いがある。実は、白い軽石はゆっくり冷えると、黒い軽石になる。大規模な噴火では、軽石は空高く舞い上げられるので、急に冷やされる。それで大部分の軽石は白い。

 これに対して、例外的にゆっくり冷やされた経歴をもつ軽石は、黒くなるという。要するに、冷え方の問題だったのだ。そのことを、小野さんはわざわざ白い軽石を焼く実験をして、確かめた。軽石ひとかけらの中に、小宇宙があったのである。

 小野さんの説明では、どうやってそのようなことが分かったか、についての話が圧巻だった。研究者が、いかにして一つ一つ謎を解きほぐしていったかの話は、小説よりもおもしろかった。どこまでも興味はつきなかった。

 小野さんは私に地層を一通り見せると、石を取りあげて私に尋ねた。「これで君には一通り教えたので、今度は自分で判別してごらん」

 私はさっきまで小野さんから習った知識を総動員し、直感をフルに働かせて答えた。それは久しぶりに頭の隅々まで使う、快感だった。論理的な思考と直感的な把握。左脳(論理)と右脳(直感)を全開させた感じ、と言ってもいいだろう。

 こんな体験は初めてだった。

 私の答えに対して、小野さんは一つ一つ回答をくれた。答えが合っている場合も間違っている場合も、なぜそう言えるのかについて、丁寧に解説してくれた。

 時には答えが合っていても、それを導いた理由が間違っていることもあった。逆に、間違った結果を出しても、考えたプロセスは正しく、正解の一歩手前であることもあった。このような謎解きを、美しい阿蘇の大地の上で、一つ一つ学んでいった。

 そよ風に吹かれながら、私は感動で一杯になった。地質学ってこんなにおもしろいものだったのか、と思った。初めて学問のすばらしさに触れることができた。

 

小野スクールに入学

 小野さんは、その時以来一七年間、ずっと私の師匠となった。彼は優れた火山研究者であっただけでなく、すばらしい教育者でもあった。阿蘇山へ登った漱石が、火山学者にならなかったのは、小野さんのような人に出会う機会がなかったからだと、私はいまでも深く信じている。

 小野さんは多くの若い火山学者を育てたが、たいへん残念なことに一九九八年に亡くなられた。彼は大学教授にこそならなかったが、彼の薫陶を受けた火山学者たちは、小野スクールと呼ばれている。地質調査所(現、産業技術総合研究所)には火山の学校があった。どんなきっかけであれ、小野スクールに入ることができた私は、幸運だった。

 以後私は、阿蘇の大地で仕事をすることに決めた。そして、小野さんが地質調査所でしてきたように、私も五万分の一地質図をつくることにした。小野さんは、阿蘇山の火山活動の全容を、近代的な火山学の手法を用いて初めて明らかにした研究者だった。その研究は、三枚の五万分の一地質図を作成する間に行われた。

 五万分の一地質図のことを、われわれの業界では地質図幅(ずふく)という。小野さんの作ったのは、阿蘇山の東の竹田(たけた)図幅、北東の久住(くじゅう)図幅である。そして阿蘇山そのものが入った阿蘇火山地質図である。私がつくろうと思ったのは、阿蘇山の北の宮原(みやのはる)図幅であった。

 毎年八〇日間くらい山を歩いて調査し、コツコツと図幅を作っていった。一回に三週間ほど滞在して、毎日山を歩いて地質調査をした。雨の日には休みを入れるが、原則的には晴れたら山に出る。何日も晴れが続くと、たまには雨も降って欲しくなった。しかし二日間も雨が続くと、外に出たくてウズウズしたものである。

 結局、宮原図幅を一枚作るのに一五年もかかってしまった。私の場合は、最終的に火山噴火の歴史を明らかにするというのが、主な仕事となった。ちょうど調査が終わりかけたころの一九九五年、図幅内にある九重火山が数百年ぶりの噴火を始め、大地の息吹きをまさに肌で感じとることもできた。地質図は今でも私の研究室の廊下に張ってある。(口絵カラー写真8)

 地質図は一九九七年に出版された。同じ年の秋、私は地質調査所から京都大学に移籍した。「地質調査所の卒業論文だね。いいできだったよ」と小野さんは言って下さった。見ていただくまでは心配だったので、本当にうれしかった。涙が出てきた。なにせ青春(?)の一五年間も、これにかけてしまったのである。宮原図幅は私にとって大きな一里塚となった。

 私は大学で学生に接する時、いつも小野さんの姿を思う。小野さんは「いいところに移ったね。おめでとう。これからは若い人をどんどん育ててくれよな」と励まして下さった。この言葉が小野さんからいただいた最後の言葉となった。

 

マグマの抜けがら:阿蘇カルデラ

 閑話休題(それはさておき)、阿蘇山は世界を代表するカルデラということでよく知られている。カルデラの直径は東西一八 キロメートル、南北二五 キロメートル。ちょうど東京都二十三区くらいの広さである。

 カルデラとは、大きなくぼみのある地形をいう。カルデラの語源は、ポルトガル語の「大鍋」に由来している。その成因としては、一度に大量のマグマが出た時に、地盤が沈下してできたものが多い(図1-3)。

 地面に大きな穴があいているものは、普通、火口と呼ばれる。そこで火山学者は、「火山に伴う凹地形のうち、直径が約二キロメートル以上のものをカルデラと呼ぶ。それより小さいものは、火口と呼ぶ」と定義した。

 「定義」というと何とも仰々しいが、要するに、山の上にぽっかりと穴が空いたものは火口で、そういう山全体を飲み込んでしまうような大きな穴はカルデラと呼ぼう、というほどの意味である。

 アメリカでは、火口とカルデラの境は一.六キロメートルと定義されている。ある時、この数字を忠実に翻訳した本を読んだ学生が「日本とアメリカではカルデラの定義が違いますね」と私に言った。何のことはない。アメリカの定義は、境を一マイルに区切っただけのことである。

 もう少し成因に関係した意味もある。火口の大きさは、一キロメートルを超えないものが多い。だから、それよりもはるかに大きな凹地形は、単純な爆発によってできたものではないだろう、という考えが生まれた。そこで火口と区別して、特に大きいものをカルデラと呼ぶことにしたのだ 。

 こう考えるのもわかりやすい。火山でできた凹地形を観察してみると、爆発で吹き飛ばされて穴があくものと、陥没によるものの、二つがある。前者を火口、後者をカルデラと呼んだら便利ではないか。いまちょっと単純化してしまったが、理解はしやすいだろう。

 ここには、経験的に大きいものと小さいものと、ひとまず別の名前をつける作業から、成因を考えて名前をつけようとする過程への、考え方の進歩がある。

 カルデラは、一度に大量のマグマが出た場合に形成される。カルデラができるような大噴火が起きた時には、大規模な火砕流(かさいりゅう)というものが出る。火砕流とは、熱く溶けた岩や軽石や火山灰が、ガスと混じって流れだしたものをいう。時速百キロメートルをこす速さで、火山から駆け降りる。広い範囲をほぼ一瞬にして埋め尽くす。そして非常に遠くまで一気に流れてゆく性質が、火砕流にはある。

 大噴火が起こって、大量のマグマが流出したとする。マグマが抜けて、地下が空洞になった分だけ、地上が陥没してカルデラができるのである。つまりカルデラとは「マグマの抜けがら」とも言ってもよいだろう。地盤沈下の大がかりなものと考えてもよい(図1-4)。

 カルデラを作るためには、マグマがゆっくりと出るのではなく、一気に抜けてしまわなければならない。その時に、一番効率よくマグマを出す仕組みが、火砕流なのだ。マグマは液体のままでは速く出られない。抵抗が大きいからだ。よって、火山灰や溶岩のかけらなどバラバラの形にして、一気に外へ出すのである。霧状に細かくして抵抗を減らせば、大量のマグマが高速で地上に出ることができる。こういう火山活動を、巨大噴火という。

 カルデラは複数のものが重なり合って、一つの大型カルデラとなる場合が多い。たとえば、阿蘇山のカルデラは、一回だけではなく四回もの大噴火でできた。阿蘇カルデラの直径が特に大きい理由は、四回の大噴火が、同じ場所で重なったからである。それぞれの回に大きなへこみが起きて、今のような世界でも最大級のカルデラへと成長したわけである。

 

北海道まで飛んでいった火山灰

 四回の大噴火があったということは、大規模な火砕流の噴出が四回あったということである。阿蘇の火砕流は古い方からそれぞれ番号を付けて、阿蘇1火砕流、阿蘇2火砕流、阿蘇3火砕流、阿蘇4火砕流と呼ばれている。最初の阿蘇1火砕流は、三〇万年前に噴出した。四回目の阿蘇4火砕流は、九万年のものだ。

 ずいぶん昔の事のようだが、九州にたくさんある火砕流の中では、決して古いものではない。ここは六百万年も前から連続して、火山活動が盛んな場所だからである。

 九州には、阿蘇カルデラから噴出した火砕流の堆積物が、広く分布している。これらは低い所を埋めて、平らな地形をつくっている。最後の阿蘇4火砕流が、最大規模の火砕流だった。最も遠いものは海を越えて山口県にまで達し、有明海を越えて島原半島にも渡ったものもある。

 火砕流が海上を走ることを初めに言ったのは、たぶん私の先生の小野さんが阿蘇の火砕流を研究してからである。火砕流が海を渡る現象は、今では世界中で知られている。水の上では障害物がないので、火砕流はあまり減速することなく流れる可能性がある。二〇〇〇年八月末、三宅島でも低温の火砕流が出て、海の上を流れた(200頁参照)。住んでいる人がまだ全島避難する前だったので、私などはおおいに肝を冷やした。

 さて、阿蘇火砕流はあまりにも高温であったので、不思議な現象が起きている。

 火砕流として飛び出した岩石が、熱によって軟化してもう一度流れだしたのである。つまり火山灰や軽石など、いったんバラバラの形になった固体が、再び液体に近い状態となったのである。そしてそれが冷えて固まって、溶岩のようなカチンカチンの岩石になった。ちょっと聞いただけでは、何が起きているのか分かりにくいだろう。

 火砕流の中にある軽石や火山灰は、もともと液体だったマグマが泡だってできたものである。野外で採ってきた軽石を実験室で真っ赤になるくらい高温に熱すると、軟化して流れだす。それをゆっくりと冷やすと、固まって溶岩と同じくらい堅い岩石になる。それと同じことが、阿蘇火砕流でも起きたのだ。

 このような岩石は、火山灰が溶けたという意味で、溶結凝灰岩(ようけつぎょうかいがん)と呼ばれている。「溶結」とはものが溶けてくっつくこと、「凝灰岩」とは火山灰が凝縮(ぎょうしゅく)して固まった岩、という意味である。ちょうど、ガラス細工をしていて、熱せられたガラスが引き延ばされたり、くっついたりするのと似ている。熱くした火山灰が、ガラスのようにくっついてしまったのだ。

 溶結凝灰岩は、私が阿蘇山に来て小野さんから初めて習った専門用語であった。

 軽石や火山灰が、溶結凝灰岩として固まるには、七〇〇度を超すような高温でなければならない。阿蘇火砕流は、流れている最中に、こんなにも高温だったのである。阿蘇山のカルデラができた時には、九州の北半分が焼け野原になってしまったと考えられている。おそらく九州全土で、人間がどこにも住めないような荒れ地になってしまったことだろう。

 一九九一年、雲仙普賢岳で火砕流が出たとき、新聞などのマスコミは「大規模火砕流の噴火」と報道した。われわれ火山学者はこれを読み、はじめはとても当惑した。大規模火砕流とは、阿蘇火砕流のような巨大噴火によってできたものを指すからだ。

 雲仙普賢岳の火砕流では、四〇人以上の人が亡くなった。しかし自然現象としては、ごく小規模の火砕流だったのである。この話は、雲仙普賢岳の章でくわしく述べることにする。

 阿蘇4火砕流の噴火は、空高く三〇キロメートル以上まで吹き上がり、さらに 西風にのってはるか遠くまで飛んで行った。この時の火山灰は、日本列島のほとんどを覆ってしまった。阿蘇4火砕流の火山灰は、なんと北海道まで運ばれている。北海道東部には、厚さ十センチメートルほどの阿蘇カルデラから飛んできた火山灰が、今でも残っている 。

  道東の原野で「この火山灰は九州から飛んできたんですよ」と言うと、大抵の人はびっくりする。巨大噴火を実感する瞬間だ。

 

大昔の阿蘇は富士山よりも高かった?

 阿蘇山を訪れた人は、外輪山の雄大な景色を見て感激する。阿蘇の外輪山は、噴煙をゆらめかせている中岳よりもはるかに大きい。中央火口丘に登って全周を取り巻くカルデラ壁を見まわした時、私もその大きさに感動した(口絵カラー写真2)。

 カルデラができる前には、富士山のような巨大な火山があったのではないか、と考える人がいる。外輪山の斜面が、阿蘇山の中心にむけて次第に高くなっている。その斜面がもし続いていたら、大きな火山ができるからである。

 大昔の阿蘇山の高さは、富士山よりも高かったのか、という質問を受けることもある。カルデラとして中が陥没しなければ、九州にも富士山を超す火山があったのではないか、という自然な疑問である。

 外輪山の地質を調査をした結果からは、答えはノーである。外輪山をつくる岩石は、富士山のように単一の火山体をつくるものではない。むしろ、カルデラ以前に噴出していた小規模の火山が集合して、外輪山を作っている。

 カルデラの周りでは、地形が阿蘇山に向かって少しずつ高くなっていく。この斜面は、阿蘇カルデラを取り囲む、巨大な火山の裾野のようにも見える。しかし、この傾斜はわずかに三度くらいしかない。これは火砕流のつくる面の傾斜である。富士山のような巨大な火山のすそ野を作る斜面の傾斜よりも、ずっと小さい。阿蘇カルデラを取り囲む斜面は、大量の火砕流堆積物によって埋め立ててできたものなのである。

 約三〇万年前、阿蘇1火砕流が流れだす前には、阿蘇山のまわりに現在広く見られるような平らな地形があったわけではない。阿蘇カルデラの位置には、小規模の火山がたくさんあったのである。このような古い火山の頂上で、のちに噴出した阿蘇火砕流にも埋められなかった部分が、今でも残っている。

 カルデラ北の外輪山にある大観望は、その代表だ。大観望では、七〇万年前に噴火した安山岩の溶岩が、切り立った峯を作っている。ここは、明治時代の文豪の徳富蘇峰が、初めて阿蘇山を見て感激してつけた地名である。彼はあまりにも阿蘇山に魅せられた結果、自分の雅号(がごう)を蘇峰(阿蘇の峰)と名付けたそうだ。

 私の知人もここに初めて立ったとき、感動で胸が震えたという。

「美しい・・。自然って何て大きかったんだろう。それを知らずに何年も生きてきたとは・・」

 この感覚はここに立った人でなければ分からないだろう。一人でも多くの人に大観望に立ち、雄大な阿蘇の自然を感じてほしいと思う。

 

煙をあげる中央火口丘

 大噴火を起こした後のへこみには、吹き上げたものが落下して床をつくる。いつまでも大きな穴をあけてはいられないからだ。だからカルデラの底はたいてい平らだ。カルデラの床と縁とでは、何百メートルもの落差がある。

 直径二十キロメートル近い阿蘇カルデラには、徐々に水が溜まっていった。何千年もかかって湖ができた。かつて阿蘇カルデラは、カルデラ湖でもあったのである。

 カルデラの床では、新たに火山活動が始まることもある。大規模な火砕流が出て、マグマの抜け殻ができたといっても、まだ少し地下にマグマが残っていることがある。それが後になって、ちょっぴり出たのが中央火口丘である。カルデラ湖の中には溶岩が噴出し、小型の火山を作った。これが阿蘇の中央火口丘の始まりである。

 現在、阿蘇カルデラの中には、十個以上の中央火口丘がある。中でも有名な高岳、中岳、杵島(きしま)岳、烏帽子(えぼし)岳、根子(ねこ)岳は、阿蘇五岳と呼ばれている。カルデラ北の大観望から見た時、阿蘇五岳は、仏様が横になって寝ている姿に似ていると言われる。これが阿蘇五岳涅槃像(ねはんぞう)である(図1-6)。

 中央火口丘のうち、噴気を上げているのは中岳である。漱石が「沢庵石のようなものが真赤になって、空の中へ吹き出すそうだぜ」と書いた山である。噴火口を見に来る人たちで、年じゅう賑わっている。

 中央火口丘の中で一番高い高岳は、九州で一二を争う標高(一五九二メートル)の山である。根子岳は、他の中央火口丘と違って、ギザギザの形をした山である。

 根子岳は、ロック・クライミングの難所としても有名である。実は、根子岳だけは、阿蘇五岳の中でもとりわけ古い。カルデラをつくった四回の大噴火のうち、二回目と三回目の間にできたものである。数字でいうと一三万年前ころである。ほかの中央火口丘はみな、四回目の阿蘇4火砕流の後でできたものである。

 だから、根子岳は阿蘇五岳に入っているが、おじいさんと孫を一緒に並べたくらいの違いがある。

 根子岳山頂のギザギザは、時代が古いために、浸食が進んだ結果できたものである。根子岳の登山はたいへんに難しく、上級者でないと山頂にはたどり着けないそうだ。上の方では平たく伸びた薄 い岩が切り立っているからである。これは岩脈(がんみゃく)といって、マグマが地下から上がってきた通路が固まったものをいう。通路の方がまわりの岩よりも堅くて、 後まで残ったというわけだ。浸食によって、先にまわりの岩が削られたからだ。

 根子岳のマグマは、垂直の割れ目を通路として上がってきた。最後にその割れ目が溶岩で埋められて、平たい岩脈となったことが分かる。

 根子岳というのは、火山が長い時間に削られて、芯だけ残った山ということができる。

 

幻想的な赤熱現象

 国木田独歩の『忘れえぬ人々』には、阿蘇噴火口の記述がある。(図1-7)

 「僕らは一度噴火口の縁まで登って・・・穴から少し降りると阿蘇神社がある。その傍らに小さな小屋があって番茶くらいは呑(の)ませてくれる」

 漱石が親友の正岡子規に送った俳句にも、阿蘇山を詠んだものが多数残されている。明治の文人は足しげく、阿蘇山に登ったようだ。

 阿蘇山頂の中岳火口には、これを書いている二〇〇二年五月現在、美しいエメラルドグリーンの池ができている。温度は五〇度を超しているので、湯だまりとも呼ばれる。湯だまりの表面では、ブクブクと泡が絶えず湧き出ている。池の縁からは、白い水蒸気がゴーゴーと音を立てて、勢いよく噴き上がっている。

 火口を見下ろす展望台に立った時、強い刺激臭に思わず咳き込んでしまった。水蒸気の他に亜硫酸ガス(二酸化イオウ)が混じっていたのである。このガスは猛毒で、限度以上に吸い込むと危険だ。

 目が慣れてくると、盛んに立ち登る白い水蒸気に対して、亜硫酸ガスが区別できる。亜硫酸ガスは薄く青みがかっていて、ゆらゆらと上がっているからである。

 亜硫酸ガスは、阿蘇山の地下にあるマグマから出てきた火山ガスである。岩石がどろどろに溶けた状態のマグマには、火山ガスが数パーセント含まれている。それが火口を通じて地表に上がってくる。水蒸気の大半は、地下水など二次的に入りこんだ水が蒸発したものである。しかし一部には、火山ガス起源の水蒸気もある。

 湯だまりの鮮やかな色は、火山ガスと一緒に上がってきた鉄などの金属元素イオンによるものだ。二価の鉄イオンは、緑がかった美しい色を出すことがあるからだ。

 湯だまりに大量の亜硫酸ガスが溶けた結果、強酸性のお湯となっている。もし皮膚に付いたら痛いのではないかと思う。湯だまりの水の起源は、降った雨水が火口を受け皿にして集められたものである。この他にも、火山ガスに含まれている水蒸気が足されていると考えられる。

 二〇〇〇年一一月ころ、夜になると、火口の縁が鈍く光るのが見られるようになった。岩がポツポツと赤い光りをまたたかせているもので、赤熱現象と呼ばれる(写真1-8)。

 これは、マグマが直接上がってきたものではない。池を避けて出てきた高温の火山ガスが、通路近くの岩石を真っ赤になるまで熱したのである。岩石は、少なくとも三〇〇度以上に熱せられているが、もっと高いかもしれない。三〇〇度という温度は気象庁が発表したものであるが、周りの冷えたところを一緒にして測っているので、低めの温度が出ているようだ。もし、一番赤くなったところだけ測れば、五〇〇度はゆうに超えているはずだ。岩石が赤熱するためには、それくらいの高温が必要だからである。

 湯だまりに水が満々とたたえられている一方、わきの岩石が赤く焼けているのは、一見奇妙な光景である。昼間は輝くようなエメラルドグリーンの池が、漆黒の闇夜にぼんやり赤い光を放つ光景は、幻想的ですらある。中岳火口は昼と夜とで全く異なる姿を見せている。

 火口周辺は危険を伴うので、夜間、観光客は立ち入りが禁止されている。残念ながら、この光景を見ることはできない。

 だが、阿蘇に来て、火山のつくる雄大な景色と、ガスを盛んに湧き出す湯だまりを見た人は、誰しもが感動する。中岳火口は、地球が生きていることを直接実感できる、数少ない場所である。

 

中岳火口の噴火サイクル

 中岳火口の観察から、噴火には規則性があることが分かってきた。中岳火口に見られる湯だまりは、マグマの活動が活発になってくると、様々に変化してゆく。湯の色が灰色から黒 色に変わり、火口内で爆発が始まるようになる。

 さらに活動が進むと、湯だまりの水は完全に蒸発し、いずれ干あがってしまう。この時期からは、黒っぽい火山灰と岩石が火口から勢いよく放出されるようになる。飛び出した岩石は、夜見ると高温に赤く熱せられているのが分かる。 その後には、本格的なマグマの噴火に移行することもある。花火のように見える噴火(口絵カラー写真1)がその例だ。

 しかし、火山灰の放出がしばらく続いて、マグマの勢いが弱まってくると、火口内に流れ込んできた雨水が、再び池をつくる。

 湯だまりの水位は、数年単位くらいで変化している。三年ほど前の水面は、火口の縁から一五〇メートル下にあったが、現在では約一〇〇メートル下になっている。

 岩石に記録された磁気の強さを定期的に測定すると、マグマの温度が上がったか下がったかが分かることがある。岩石の中には磁石の性質をもった鉱物がある。これは磁性鉱物と呼ばれるもので、高温になると磁気を失う性質がある。たとえば、磁石を火にくべてある温度以上に加熱すると、鉄片を引き付ける力が弱くなる。この性質を利用して、阿蘇山の地下のマグマの変化が調べられている。

 この性質を利用して、阿蘇山の地下のマグマの変化が調べられている。

 地磁気の観測結果によると、阿蘇山のマグマの活動が、ゆっくりと上昇している可能性がある。ここ数年(一九九八年以来)、中岳の下の磁気が、減少していることが分かってきた。これは、地下深くにあるマグマだまりの温度が、ゆっくりと上昇しつつあることを意味する。

 この傾向が今のまま引き続くかどうかは定かではないが、研究者はその成り行きを注目している。

 今後、赤熱現象が盛んになって、湯だまりが干あがってくれば、阿蘇火山は次のステージに入るものと考えられる。

 もう一度、阿蘇山を描写した国木田独歩の名文を、紹介したい。

 「阿蘇山の白煙を目がけて、霜を踏(ふ)み桟橋を渡り、路(みち)を間違えたりして、ようやく日中(おひる)時分に絶頂近くまで登り、噴火口に達したのは一時すぎでもあっただろうか。」

 「高岳の絶頂は、噴火口から吐(は)き出す水蒸気が凝(こ)って白くなっていたが、その外は満山ほとんど雪を見ないで、ただ枯草白く風にそよぐ。」

 「焼け土のあるいは赤きあるいは黒きが、旧噴火口の名残(なごり)を彼処此処(かしこここ)に止(とど)めて断崖をなし、その荒涼たる光景は、筆も口も叶(かな)わない」         『忘れえぬ人々』 明治三一年

 

阿蘇火山博物館のこころみ

 地下からほとばしるマグマのエネルギーを見ようと、年間百万人を越える観光客が、火口を訪れる。時には、火山ガスに含まれる亜硫酸ガス(二酸化イオウ)の濃度が高くなり、火口を見下ろす展望所への立ち入りが、規制される。せっかく阿蘇山頂まで来たのに、肝心の火口を見ることができないこともある。

 二十年ほど前、近くの草千里浜に火山博物館が建てられた。ここでは火口を覗く二台のカメラ映像が、リアルタイムで放映されている。立ち入り規制の時でも、常時火口の中を見ることができる。

 一台のカメラは、上下左右、見たい場所に自由に動かすことができ、ズームアップも可能だ。指向性マイクが取り付けられていることから、自分で火口内を探検するような体験もできる。

 指向性マイクとは、マイクが向いている方向だけからの音を拾う、高感度のマイクをいう。これがあると、風の強い日でも風のつくる雑音にわずらわされず、聴きたい音だけを選んで採ることができる。

 一九七九年、中岳火口から、高速の火山灰が流れ出す低温火砕流が発生し、三名の犠牲者を出した。その後も何回か発生した火砕流が、この無人カメラで撮影されている。これらの映像は、研究者が噴火災害を解析する時に、大いに役立っている。火山の科学は、実際に起こっている様子を記録することから始まるからである。

 阿蘇山は実物教育をするのに最も良い場所である(図1-9)。しかし遠くにある学校の生徒には訪れるのが難しい。そこで、火口カメラの映像が、インターネットを通じて見られるようになった。火山博物館では、このような映像を用いて、小中学校の授業とリンクさせている。

 テレビ電話を使って、今火山で起こっていることの説明を博物館の専門家が行う。生徒の質問に直接答えることも可能だ。これまで茨城県や福井県の生徒が、阿蘇の映像を見ながら授業を受けてきた。

 昨今、子供たちが生の自然に接する機会が大幅に減ったことが、理科離れの原因の一つとされている。肉眼でもインターネットを通してでも、ブクブクと火山ガスが湧き上がる湯だまりを見れば、地球に興味をもつ生徒が増えるに違いない。

 阿蘇火山博物館では、火山がとても身近に感じられる。博物館を教育や防災に役立てるというのは、優れたアイデアだと思う。

 

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